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「ヴラジーミル・モノマフ」(ローマ字表記 Vladimir Monomakh )は、ロシア帝国が建造・保有した装甲巡洋艦()である。ロシア帝国海軍では当初は半装甲フリゲート()、1892年2月1日からは1等巡洋艦()に分類した。艦名は、キエフ・ルーシのヴラジーミル・モノマフ大公に由来する。 19世紀、ロシア帝国が外洋進出を目指した時期に主力艦として整備された「大洋巡洋艦」()の1隻で、その時代には地中海ならびに太平洋方面のロシア艦隊の中核的役割を担う軍艦のひとつであった。日露戦争の時にはすでに一線を退いていたが第3太平洋艦隊に選抜され、日本海海戦で戦闘のすえ自沈した。 == 概要 == 「ヴラジーミル・モノマフ」は、「ドミトリー・ドンスコイ」級の2番艦として設計された。この艦級は、「ヴラジーミル・モノマフ」の建造がネームシップの「ドミトリー・ドンスコイ」より先になったため、しばしば「ヴラジーミル・モノマフ」級とも呼ばれる。建造当時、ロシア帝国海軍にはこのクラスの艦船に適した艦種の候補に「フリゲート」と「巡洋艦」という正式分類があったが、「ヴラジーミル・モノマフ」は姉妹艦とともに前者へ分類された。設計上の特徴から、「半装甲フリゲート」とも呼ばれた。1892年2月1日付けで帆船時代からの分類法が改定されると、「ヴラジーミル・モノマフ」はほかのすべての大洋巡洋艦とともに、新設された1等巡洋艦を構成した。 その全盛時代にはバルト艦隊地中海艦隊やバルト艦隊太平洋艦隊の中心的存在として、バルト海から太平洋までの広い海域を行き来した。関与した最も大きな歴史的事件は、1895年の三国干渉と1897年のウラジオストク開設、そして1900年の義和団の乱である。 ロシア帝国海軍が艦隊主力を艦隊装甲艦とする方針転換をすると、1901年12月に本国へ引き揚げた。巡洋艦としての役目も、次世代の1等巡洋艦に譲った。20世紀初頭には、専ら練習艦隊で士官候補生や水兵の養成に貢献した。 1903年から1904年にかけて、練習艦への改修工事が行われており、第2太平洋艦隊への編入は見送られた。しかし第3太平洋艦隊としての増派が決定し、工事が完了しないうちに前線への復帰が命ぜられた。工事は最低限のもので終えられ、スエズ運河経由で極東へ向かった。第2太平洋艦隊に合流後は巡洋艦支隊に編入された。 1905年5月14日(ユリウス暦)には、1等佐官の指揮の下、艦隊を追跡する日本海軍の巡洋艦「和泉」に対し激しい砲撃を加えた。「ヴラジーミル・モノマフ」の報告によればこの戦闘で「和泉」に損害を与え、自艦は無傷のまま戦闘を終了した。「和泉」側の報告ではこの戦闘においての損害は記録されていないが、小笠原長生の書いた作品には追跡中の被弾した際の戦死者に関する挿話がある。主力決戦と平行して行われた日本の巡洋艦隊との戦闘では16時に重量砲弾を受け、火災を生じた。夜間戦闘ではみたび敵の水雷艇の攻撃を撃退したものの、21時にはついに船首第2石炭庫に魚雷が命中した。老朽化していた水密隔壁は海水の流入に耐え切れず、崩壊した。これによって両ボイラー室と右舷機関室が浸水し、排水ポンプへの電気供給が止まって排水ができなくなった。ポポーフ艦長は艦を座礁させるために朝鮮半島沿岸まで航行させようとしたが対馬まで辿り着くのがやっとであった。そこで仮装巡洋艦「佐渡丸」からの砲撃を受けた。傾斜は18度に達し、反撃に使用できる武器は75mm砲しか残っていなかった「ヴラジーミル・モノマフ」は、軍艦旗を降ろして進航を停止した。この行動を見た「佐渡丸」側は降伏と判断し、砲撃を中止して捕獲を試みたが、失敗して11時30分に退艦した。それからしばらくは浮遊していたものの、14時30分に沈没した。乗員は「佐渡丸」と来航した「満州丸」に救助された。 1905年9月19日、「ヴラジーミル・モノマフ」は海軍から除籍された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴラジーミル・モノマフ (装甲巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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